昭和49年09月19日 朝の御理解



 御理解 第69節
 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」

 みやすい信心をすると言う「信心生活」と言う事がよく言われますが、信心生活が出来る様になり」ますと、信心はそれこそみやすいものになってくると思います。けれども「生活信心」は、信心生活の反対ですよね。生活信心。そう言う事になっておりますから、信心が難しゅうなるのです。信心が中心だから「信心の中に生活がある」という生き方になりますと、信心はみやすいものになります。
 自分達の生活を神様から色々人間の持つ、願い事と言うか欲望と言うかそういうものを充たして頂くのが信心のように思うておる所に、難しくなってくるのです。ですから信心が中心になってまいりますと、今日は忙しかったから、お参りができんと言う様な事は決してありませんね。だから信心の方へ掛っておると言うてもいいです。その中に生活は嫌と言わんでも、要らんと言うても、生活の方は神様が見て下さるのです。それが「信心生活」。おかげを頂かんならんからの信心は大変難しいです。
 ですから私共は、ほんとうは信心と言う事が芯で、生活と言う事は後から付いてくるもの。神様が生活と言う事は見て下さるもの。そういうひとつの信じ込みができますと、信心はみやすうなってまいります。信心生活ですよ「今日はもう忙しゅうして」「今日はあんた取り上げで」「今日は大売り出しで」と言う様な事はないですよ。信心あっての取り上げなのです。信心あっての大売り出しなのです。
 ですから難しくはない信心は。言うならば毎日毎日ご飯を頂くようなものです。ご飯を頂かなければ、健康は保たれません。信心なければそれこそ世界は闇なりです。信心なければ立ち行きそのものができんのです、神様におかげを頂かなければ。はぁ今日は忙しゅうして忙しゅうして、もうご飯を食べんじゃったと。成程一遍二遍ぐらい抜くような場合もありましょう、忙しいから。けれども結局忙しかっても、ご飯は頂くようにです、信心生活と言う事。だから信心生活になるまでがむつかしいんです。
 そんな感じが致しますね。問題は三年五年で、それが出来るとは思われません。始めの間は病気を致しました。難儀な問題が御座います。いろんな悩み苦しみがあるから、「神様どうぞよろしくお願いいたします」というのが入ってくる。そんな所から入ってくるのが、殆どなのですから。矢張り三年五年はまだ迷いやすい。おかげを受ければ有り難い。おかげを受けなければ迷いがくると言う様な事になります。
 けれどもお道の信心を、段々頂いておりますと、言うならば御教えを頂いてまいりますと。信心と言う事は神恩報謝の生活。神様あっての生活。神様あっての私ども。神様が中心になってくる。その頃からです私は思うんですがね。われながら喜んでわが心をまつれと言う様な、おかげが頂けて来る様になると思うです。今朝私は丁度二時に目覚ましのおかげを頂いて、それからシャワーを頂いた。
 まぁ一時間あると思って、また休ませて頂いた。その休ませて頂いておる間に、まぁ一時間余りの有り難さというか、極楽の雰囲気というか。本当に、これが真の極楽だろうかと思われるような、有り難いものが込み上げて込み上げて、もう何ともかんとも、それこそ名状しがたい有り難さに浸らせて頂いて、そしてまたうとうととしております。そのうとうととしております時にお夢を頂いた。
 それは皆さん、朝鮮の釜山と言う所があります。私あちらに叔父がおりましたから、子供の時に一回行ったことがありますが。朝鮮人の方達がいわゆる韓国人の方達だけの市場があります。日韓市場か何かと言う大きな市場です。その始めて行った者は、ニンニクの匂いと、何かしらとにかくそれこそ妙な、けども沢山いわゆる何と言うですか。必需品の市場なんですね生活の。そんな感じなんです。
 それでそこには身動きができない位に人がいっぱい入ってるんです、市場の中に。けどもふっと気が付かせて頂くとです。誰もいろんな物買っておる者がいないんです。それで、売る方の側は、そのこれが安いですよ。これをこれは食欲が付く、あの朝鮮漬けみたいなのをですね、明太子とこう混ぜたような物。これはとにかくもう食欲が付きますよと言うて、えらい押し売りをしよるけれども、只一杯人間が入っておるだけで、物を買っておるという者がないと言う様な状態のお夢であった。
 一歩市場の外へ出ると、鉄骨でずっと、ここにはまた商店街ができるげなと。大変な大きな市場ができるもんだなぁと言うて居る様な所も夢の中にあった。目が覚めて私はどう言う様な事であろうかとこう思うた。今私は丁度その日韓市場ですね、その朝鮮市場に一杯人が入っておるのは、今合楽にさぁ何かあると言うから、もうここ一杯になる。言うなら、お月次祭なら月次祭に、お広前が一杯になる。けれども本当に生活の必需品である所の、そう言う様な物を買おうとしておる人は無いような気がする。
 生活の必需品と言う事は、どう言う事かと言うと、今日皆さんに聞いて頂いておる「信心生活」に必需な物なのです。夕べで、ちょうど大黒様が、八十六体合楽から出ておいでられました。これなんかは大黒様さえ拝みゃ、おかげが頂けれると言った様な、安易な考え方。これはどう言う事かというと、「信心生活」ではなくて、神様を使おうと言う。大黒様ばごうぐってから貰おうという。大黒様の機嫌をとってから、金銭のお繰り合わせを頂こうという。これはだから信心生活じゃないですね。
 これはもう生活の為の大黒様。お金ば頂きたい為の大黒様。成程それも要るんです。大変それも有り難い事です。けれどもそれ、信心生活の必需品ではないのです。生活信心には金が要る。そういうおかげを頂かんなりません。病気も治してもらわななりませんしね。お金も要ります。だからそのへんの所で、もしうろうろとしておるなら、一生掛っても「信心はみやすいもの」と言う事になって参りません。矢張り信心は難しいもの。頂いたおかげ。成程大黒様ごうぐりゃ、この頃大抵な事のおかげは頂かれる。
 この前の月次祭に一億円、どうでも日にちを切ってもう何日しかないのに、手の尽くしようがない。尽くすとだけは尽くした。で久富正義さんを通してお願いにみえた。月次祭が終わってからでした。所が月次祭の時に大黒様が、大判小判というけれども、小判じゃない大判ばかりを、どんどんこうやって打ち出しておられる所を頂いた。その後にそういうお届けでしたから、「はあおかげ下さるな。どういう手をもっておかげを下さるであろうか」と思いよりましたが。
 昨日詳しい事は聞きませんでしたけれども、お繰り合わせを頂いたというお礼のお届けがあった。そう言う様なおかげをです。例えばまた一億円なくなったから、また一億円お願いしますと言う様なのが、いつも頂けれるとは思われませんものね。それこそ一億円なら一億円の徳を頂けば、使うても使うても一億円です。昔から言われるように「使うて減らぬ金百両」です。
 だから生活信心から、お徳の受けられるとは絶対に思われません。信心生活をさせて頂いて、始めてお徳が受けられるです。金だけではありません。尽きぬおかげ限りないおかげの頂けれる信心です。だからどうでもひとつ、皆さん信心がみやすいものになって来にゃいけません。ただ嬉しゅうして楽しゅうてという信心になって来にゃいけません。それにはね、「信心生活」でなからにゃいけません。信心が芯です。どんなに取り上げが忙しかろうが、どんなに大売り出しで忙しかろうが信心が芯なんです。
 大売り出しの方も、取り上げの方も、後から付いてくるものなんですから。そこにはです、例えばお参りが難しいこともなからなければ、奉仕が難しい事もない。信心そのものがです、そのまま生活なのですから。ですから成程三年五年で出来ようとは思いませんけれども。只大黒様のおかげで、金銭のお繰り合わせを頂いたと言った様な程度のおかげからはです、いわゆる「三年五年ではまだ迷いやすい」と言う事にしかなってこないのです。そこでね言うならば、信心生活に必需品。
 例えば昨日なら昨日の月次祭に、沢山のそれこそ日韓市場に一杯人間は入っておるけれども、そういう信心生活に必需なものを買おう、頂こうとする者はいない。只一杯入っておるというだけ。是では悲しい事ですね。私以前にこんなお夢を頂いた事があった。道をこう歩いておるとですね、懐中電灯ですねエキセルです。それの拾いました所が中身がない側だけである。それからずっと歩いて行きよりましら、電池が落ちております。レンズが落ちておる。中の球が落ちておる。
 それをずうっと拾い集めてまいりましたら、ひとつの懐中電灯が出来た。こうやってスイッチを押すと、パッと前の方が明るくなるというのです。だからどのひとつを拾い得なかったらです。それは懐中電灯の値打はないんです。信心の光とうものも信心の徳というのもです。ここを粗末にしたらおかげにならんと分かっておりながら、お粗末にしたら何十年信心したってお徳にはなりませんです。こういう生き方にならなければ、お徳は受けられないとこう言う。難しい事じゃありません。
 只その一つ一つを拾うて行くだけの事ですけれども。「こんくらいの事は良かろう」と言うて、ひとつ拾わなかったらもう光にはならんのです。それは丁度落ちているものを拾う様にみやすいのです。それが眠り半分の信心をしておるから、拾い得ないのです。ちゃんと眠っておる時に、ちゃんとそこを通り過ぎておる。
 そこで信心をさせて頂くなら、それこそ神様の前に出たならば、パチッと目が開くような信心させてもらわなければ。いわゆる生き生きとした信心です。そういう生き生きとした心で、お話を頂きますから、はぁあそこが分からなかったと、今までは分からなかったことが、一つ一つ開眼していけれる。目が開いていく。「合楽示現活動」「合楽示現活動」「合楽示現活動に参画させてもらわなければ」と、口を開けば、この頃言われるから、それが、耳には付いておるけれども。
 実際生き生きした心で頂いてないから、その働きになってこないのです。私は今日はその事について思わせて頂いたんですけれども。本当にです只おかげば頂かんならんから、合楽示現活動するのじゃったら駄目です。例えば一人でも多くの人がです、そう言うならば、大きく大きく言うならばです、一人でも多くの人が、地球上に生き残れれる事の為にです、それこそ神心をもって、信心の分からない人には分かって貰いたい。信心の間違うておる人には、間違いのない道を歩いて貰いたいというのが。
 示現活動になってこなければいけない。おかげを頂く為にかかってお話をして回りよる。自分はいっちょんおかげ頂いとらん。そげなことじゃならんです。自分自身が先ず極楽を頂かなければ。自分自身がまず今朝私が感じたような極楽を頂かせてもろうて、その有り難いものが、「合楽示現活動」と言う事に成って来なければ、本当の意味においての合楽示現活動、それでは人にお話をすると、自分が助かるからと言ったような、汚いというかそういう打算的な合楽示現活動ではきつくなるです。疲れるです。
 そこで自分がまず極楽に行くためにです、ここで祈りの中に、願うからには拍手を打って御神前に向こうたから、これだけは唱えなさいよ、これだけは一生懸命お願いなさいよという「五つの願い」というものが、まだ完成してないという感じがするですね。一つ「どうぞ体の丈夫を頂かせて下さい」「どうぞ家庭に不和のなきがもとと仰せられますから、家庭に円満のおかげを頂かせて下さい」「どうぞ子孫繁盛家繁盛のおかげを頂かせて下さい」「日々の御用が本当の信心生活。
 本当の意味においての御用の内容ができてまいりますように」どの一つが欠けても、本当は、合楽示現活動はできません。歩こうと思うても、不健康であったらいけません。家庭が不和であったら勿論いけません。子孫繁盛家繁盛と言う事は、繁盛と言う事ですがです。言うならばお金がなかったり、物がなかったりではできません。ですからいかにも我情我欲のようでありますけれどもです、どの願いひとつでもです。
 合楽示現活動のおかげを頂かせて頂く為には、お金も下さい、暇も下さい健康も下さいということになるのです。言うなら最後の神様の願いが成就いたしますように。神様の願いが成就することの為に、お役に使うて頂くことの為に、健康のおかげも頂きたい。子孫繁盛の家繁盛の、または商売繁盛のおかげも頂きたい。同時に家庭の円満のおかげも頂きたい。そこのおかげを頂くと言う事をです。私がまずお互いが極楽の確認をしなければならないというふうに言っております。
 先ず自分自身が本当の極楽確認。もうほんとに金光様の信心の素晴らしさ有り難さ。これはいつも思うんですけれどもね、私位名人間言うならば、つまらん屑の子。だから私位な人間でも、この位なおかげを頂いておるのであるから、皆さん位のおかげを頂いておられる、人間的におかげを受けておられるならばです。私以上の極楽を感じ私以上のおかげは頂けれるはずだと、これは私いつも思うです。
 親先生は別格。特別そういうふうな、決して皆さんが言われるような特別な人間じゃないです。これは本当私自身が言うからほんなことです。それこそ私位な人間です。私位な人間がです、この位なおかげを頂いておるのですから、高芝英雄さんやら、久富繁雄さんやら、高橋定利さんあたりのような、素晴らしい方達はもっともっと素晴らしいおかげが頂けんならんはずです。と私は思います。
 だから私位な人間でも、この位のおかげを頂いておるのであるから、今世の中の皆んなの人がおかげの頂けれる道です。所がその道を行じようとしない。拾うて行かなきゃならんところを、拾うて行っていない所にです、いつまで経っても、道を明るくするような光になってこないのではなかろうか。ただ大黒様奉賛の所だけに力を置かずにです。「五つの願い」と言う事が本気でなされなければいけないです。そしてそれが一つ一つ成就して、本当に私こそ極楽。
 私の家こそ極楽のおかげを頂いておるという確認ができて、そこから示現活動が出来なきゃならないのです。それこそ日韓市場の、生活必需品を一杯売っておる。それを一生懸命、押し売りのようにして言いよるけれども誰も買い手がない。私が皆さんにこうやって言っておるのはです。信心生活の必需品をです、私が押し売りをするように一生懸命説いておるのですよ。けどもその肝心な所は買おうとしないでです。
 只一杯入っておるというだけでは、神様は愈々世界に合楽を示現したいという、御願いがあるからこそ、その市場の向こうにはもっと鉄骨のずっと、どれだけ広いか分からんような商店街が出来ておると言う事もです、そういう準備が着々として進められておるのにも拘らず、人間は一杯入って来ておるけれども、信心生活に必需である所の、必需品を買おうとはしてはいない。せめてこの朝鮮漬けなっとん買うてくれんの。この朝鮮漬けで、ご飯ばいっちょ食べてごらん。どげん食欲のなかもんでん食欲が出ますよ
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